会員の皆様こんにちは☆
今日も雨ですね...、そしてとっても寒いです(涙)
4月も下旬になろうというのに、今年は本当に変な天候ですね。
さてさて、本日は来週の月曜日より先行発売になります
『ダモイ ~収容所(ラーゲリ)から来た遺書~』についてお届けいたします!
2005年に初演を行い、2006年2008年と再演をし、そして今年キャストの一部を変えての
新たなダモイが帰ってきます!
すでにトム・プロジェクトHP内にダモイの公式ページを立ち上げまして、作品紹介や
2008年に紀伊國屋ホールで公演を行った際のお客様のアンケートの一部などを
紹介しておりますので、是非ご覧になってみて下さい♪♪
ダモイは第二次世界大戦後にシベリアに抑留された男たちの真実を描き
第21回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回講談社ノンフィクション賞に輝く辺見じゅんの
「収容所から来た遺書」を舞台化した作品です。
ソ連軍に捕われ、極寒の地で飢餓と重労働を強いられながらも、
いつかダモイ(帰還)をと、夢を諦めなかった男、山本幡男。
劣悪な状況下でも知性と人間性を失わず、希望を生きる力に変える男たちの
その姿は時代を超えた今、たとえ戦争を知らない世代の胸にも迫り込みあげ
るのではないかと思います。
以前、山本幡男氏のご長男の山本顕一さんよりいただいた言葉を紹介させていただきます。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
【父たちの声】
山本顕一(山本幡男氏の長男)
私が父と最後に別れたのは十歳のときである。
1945年4月、敗戦直前の満州においてであった。私の眼に映った父は、
酒をあおっては声高に軍部を批判して家族をはらはらさせた点をのぞけば、
ごく普通の会社員であった。駄洒落ばかりが得意で、風采は上がらず、
何事にも不器用な父をそれほど偉いとも思えなかった。父の偉さが分かり
始めたのは、シベリヤで父と苦難を共にされた方々からうかがった抑留中
の父の言動によってである。
文字通り絶望的な状況の中にあっても、それでも明るく生き続けよう、希望
を持ち続けようと決意した人間。その生きる希望がまさに断ち切られようと
した時、万感の思いを込めてしたためた遺書。
その遺書をあらゆる困難を乗り越えて、一字一句間違えることなく伝えてくだ
さった方々。この間の事情を徹底的に調べ尽くされ、感動的な作品にまとめ
上げられた辺見じゅんさんの「収容所から来た遺書」に触発されて、この度
三人の名優によってシベリヤ抑留の苛酷な状況が舞台上で再現されるという。
父たちの思いは、生の声に乗せられて、どんなに強く私たちの胸に届くことで
あろうか。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
【シベリア抑留について】
第二次世界大戦末期に行なわれたソビエト連邦の満州への侵入によって生じ
た日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった植民地出身者、朝鮮人含
む)が、長期間主にシベリアその他に強制抑留された。第二次世界大戦末期、
ソ連は日本に対し一方的に日ソ中立条約を破棄し、満州に進入した。
この際勃発したわずか「7日間」の戦闘において満州や南樺太などで捕虜となっ
た旧日本軍将兵や在満州民間人など、約65万人がシベリアに抑留され、過酷
な環境下で強制労働に従事させられた。抑留された捕虜の数については一説
には200万人以上(ワレンチン・アルハンゲリスキーの著作およびダグラス・マッカーサー元帥の
統計)ともいわれている。
なお、一般的にはシベリア抑留という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや
中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパ、ロシアなどにも抑留者が送り込まれていた。
現在でも、そういった地域には抑留者が建設した建設物が残存しており、彼らの
墓地も存在するが、現存するものは極めて少ない。
シベリア抑留においてそのシベリアの過酷な環境と強制労働が原因で厚生労
働省把握分では全体の1割に当たる約6万人(グラスノスチ後、発見された資料に
よると40万人とも)もの死者を出したという。
1947年から1956年にかけて47万3000人の抑留者のダモイが行なわれたが、
民主運動に関係したものの中には帰国を拒否してソ連に残留し、帰化した者
もいる。
なお冷戦終結後、ロシア側から収容所・墓地の所在地リストが日本政
府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体な
どによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。
----------------------------------------------------------------
1945年8月8日 ソ連、対日宣戦布告。9日ソ連軍攻撃開始。15日ポツダム宣言受諾。
1945年8月16日 スターリン、トルーマンに北海道北半分占領に関する秘密文書を送る。
トルーマン拒否。極東、ソ連軍との戦闘状態が続く。
1945年8月23日 スターリン指令『日本軍捕虜将兵50万人をシベリアに移送せよ』を発表。
1945年9月2日 日本、降伏文書に調印、9日戦闘状態停止。満州や南樺太などの地から
軍人、民間人を含め60数万人以上シベリアに送られる。
1946年12月19日 日本人捕虜の引き上げに関する米ソ協定締結。
以後日本人捕虜の帰還が始まる。
1950年4月22日 タス通信を通じてソ連政府は『日本人捕虜の移送完了』を宣言。
この物語はここから始まる。
シベリアに強制抑留された人数は、60万人とも70万人とも言われ、
シベリアの地で亡くなった人たちは、その一割に上り、帰還した人たちは
47万数千人。現在、なおも正確な数値は不明である。
戦後65周年という節目の夏にお送りする「ダモイ ~収容所から来た遺書」。
沢山の方に観ていただきたい作品です。
是非、是非よろしくお願いします^^
キャスト、スタッフ一同心よりお待ちしております!
コメントする